
第二話
固定された何かは、そもそも存在し得ない。
普遍性は変化するほうにあると感じている。
刈り取ったカジノキは釜に入れて蒸す。ジャガイモと同じで、蒸したら皮が簡単に剥ける。これが和紙の原料になる。

蒸すときは、とてもいい香りがする。トウモロコシのヒゲのような、こうばしく甘い香り。その蒸気で野菜も一緒に蒸して、休憩中にみんなで食べたりもする。
この剥いた樹皮を水に浸してから煮て柔らかくし、叩いて繊維をほぐす。樹皮は繊維の集合体なので、それをほどくような要領だ。これを水に浮かべて、道具を使ってすくい取る。
それが「紙漉き」というおおまかな工程となる。
一連の流れの中で、接着剤のような成分は入れていない。なのになぜか不思議なことに、繊維どうしがくっついて紙になる。
それは、樹皮自体にそもそも接着成分が備わっているから。つまり、単に紙の繊維がつながるというより、樹皮が持っている本質を、そのまま取り出してつくるのが和紙、ということになる。
僕は歴史の中で、自分がどこに位置するのかをよく考えている。

木に例えると、中心の部分に初代の先人がいて、年輪のように各時代の人たちが刻まれていく。そのなかで僕はおそらく、樹皮のある一番表面の部分に存在している。
樹皮の役割は中身を守ったり、外と内をつないだりすること。
そういうわけで僕は今、和紙の新しい可能性をひらく作品をつくっている。

焼きもののように焼き固めるわけではないので、長い時間や環境によって、必ず変わっていく。色もシルエットも微妙に変化していく。
いわばこの作品は、樹皮の性質も和紙の特性も持ち、工芸性も芸術性も携え、人工的な側面も自然の摂理も内包している。そこには意思がないミニマルな状態で、ただ対峙する「時間」が、そこにはあると感じている。

固定化するのを避けるのは、自分自身の体も新陳代謝し、歳を取って移り変わっていくことを考えると、固定された何かというものは、そもそも存在し得ない。普遍性は変化するほうにあると感じている。
諸行無常のような響きはあるけれど、それを空虚だとは思わない。


