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第一話

「読み物ではない言葉」に対する
興味というのは、ずっとあった。

伊藤 紺 | 歌人

1993年生まれ。歌集に『気がする朝』(ナナロク社)、『肌に流れる透明な気持ち』、『満ちる腕』(ともに短歌研究社)。“リレー”のように交互に作品を制作する、デザイナー・脇田あすかとの展示作品「Relay」、土地を歩き、土地に短歌を書き下ろした「みちのおくの芸術祭 山形ビエンナーレ2024」への出展のほか、ファッションビルとのコラボレーションなど活躍の場を広げる。

偏愛と呼べるほど、ものすごくオタク的に何かを愛することがあんまりない。ハマっても飽き性なので続かない。短歌にしてもその歴史を調べたり、動向をずっとチェックしている人と比べると全然で、卑下ではなく、ある意味のその軽さもまた、自分をかたち作るものなのかなと思っているところがある。

ただひとつ。「読み物ではない言葉」に対する興味というのは、ずっとあった。

高校生まで、本はほとんど読まなかった。記憶にあるのは児童書の「かいけつゾロリ」くらい。逆にお菓子などのパッケージの裏なんかはいつも全部読んでいた。

今でもネットのレビューや、街の人の会話、貼ってあるポスターや標語、パッケージや商品に同封されているメッセージなどをだらだら眺めては、その口調を味わったり、違和感やおもしろみがあればスクショやメモをとったりしている。

たとえば暴力行為防止のポスターでは「一発でもダメ」というコピーが気になった。「一発」って、暴力を振るう側の語彙で、振るわない側からしたら当然すぎることなので、ちゃんと彼らに届ける言葉になってるのかもと妙に感心した。

また古いところが多いからか、接骨院の看板の文字は独特でぐっとくることが多い。

共通するのは、つるーんとしていないこと。そこにとっかかりや語れる何かがあり、少しだけ世界が飛ぶ言葉。奥にある、書いた人の意図だったり、意図ではない無意識だったりが、見ようと思えば見えそうな言葉。

ただ自分の作る短歌は、日常的に話す言葉だけを使うようにしている。

たとえば「纏う」という言葉はきれいな言葉で、読む分にはいいのだけれど、ふだんあまり言わないので、使いたくはない。文学作品の中でしか見ないような言葉を使うことは、まるで英語を使っているみたいで、自分の作品には自然じゃないように思えてしまう。

きっと自然な言葉の持つ無邪気さや生感。普段あまり意識されない言語世界のおもしろさや魅力があって、それが好きなんだと思う。

でも、ただ普通の言葉ってだけかと言われるとちょっとちがう。たとえば次のような歌がある。

枯れてしまうことも覚悟している大きめの鉢に植え替えるとき
『気がする朝』(ナナロク社)


これは、人生の話に置き換えてもそうで。何か大きいチャレンジをするときは、そのままダメになっちゃうことも、どこかで覚悟している。

鉢替えという日常の行為から、人生という大きなものにまでスライドできるひとつ輝きが、根本にある。

自分にとっての、真実の発見。

そこに歌のはじまりがある。