LOVE SOME STORY

第二話

韻律と響き、字面と意味がかみあったとき、
言葉が辞書通りの意味から解放される。

短歌の世界では「歌になる」という言い方がある。

「五七五七七」というフォーマットが短歌にはあり、それはすごく大事なのだけれど、とはいえ五七五七七にすればいい、というわけでもない。たしかに形式上は短歌なのだけれど、ただの言葉の羅列では、そうなっていないものもたくさんある。

ただそこから鍛練していくことによって、どこかで「歌になる」瞬間が訪れる。1本背骨がすっと通るように必然性が生まれ、「もうこれ以上変えられない」というかたちにストンと収まるところが、感覚的にある。人によって違うとは思うのだけど、それがわたしにとっての「歌になる」瞬間だ。

たとえば、songのほうの歌の場合。“愛してる”という歌詞があったとして、あまりにも使い古されている言葉なので、それだけを見て泣くことは、あまりないかもしれない。けれどメロディがあり、人の声で聴いたとき、はじめて唯一無二の“愛してる”となる。

もしくは“お前のこと全然好きじゃないぜ”と歌詞にはあっても、めっちゃ好きじゃん!って伝わってしまうときもあるだろう。歌にすることで、書かれていない本当の気持ちがなぜか鳴りだす。

短歌も、この感じに近いものがあると思う。

たしかにメロディも声も短歌にはない。けれど技法や、選ぶ言葉によって音程やリズムには実は無限のバリエーションがある。

あとは字面もある。漢字、カタカナ、平仮名の表記による印象のちがいもあるし、一行で表すことが多いので、下の句や結句で前半をひっくり返すこともできる。とはいえ、人の視野には収まっているので、無意識に一首全体の印象を一瞬で受けていたりもする。

こんなふうに韻律と響き、字面と意味がかみあったときに、言葉が辞書通りの意味から解放されるのだ。

わたしは短歌の、そういうところをすごくおもしろいと思う。

ほとんどの人は、短歌に興味を持つことはないだろう。持ったとしても、「歌になる」というニュアンスをつかめるかどうかは、若干の適性がある。

でも短歌になんて適正がない人のほうが、おそらく世の中ではうまくやっていける気がする。