LOVE SOME STORY

第二話

たまたまその人の個性として出てしまう
「作為のない抜けのあるもの」に惹かれた。

いろいろなものを見て、影響を受け、作品をつくっていくうち、だんだんと自分の好みがわかってきた。

どこか抜けているもの。作品そのものの持つゆるさ。あえて外して作品をつくっている人もいるとは思うのだけど、自分としては操作をしていない、たまたまその人の個性として出てしまう「作為のない抜けのあるもの」に惹かれた。

プロフェッショナルではない、言ってしまえば素人がつくったようなものが好きだった。

大学を卒業し、地元の岡山に戻った僕は映像や写真などの美術作品をつくりながら、同時に近くの陶芸教室にもひんぱんに通っていた。

美術は好きな作家がたくさんいるのに対し、陶芸の作家は誰ひとりとして知らなかったから、趣味のように楽しめて、肩の力を抜いてできる。つくることの欲求を満たしてくれるだけでなく、おのずとつくるものとの距離もでき、客観的に見ることができる。

「僕は別にいいんだけど、YAZAWAがなんて言うかな?」という名言を残した矢沢永吉のように「僕は好きだけど、美術作家としての僕だったらこれは好きじゃない」いわば、そんな感じだった。

2019年くらいから、ワークショップもよく開催した。ふだんものづくりをしていない人が参加し、粘土を使って造形をする。SHOKKIのワークショップでは、作るものやテーマを設定することはほとんどないが、なぜか目玉焼きや餃子をつくる人が多かった。

いろんな人のつくる餃子を見た。そこで僕は、「作為なしにつくる餃子」の普遍的な造形があるような気がした。いや、意識していたわけではない。その時は僕もただ見てるだけだけど、何かの拍子にふと思い出し「作為のないものの最大公約数」が制作時に生かされてしまう。

よく美術作品などで作家が作為を入れないために、わざと自然現象を入れたりするように、人間の手による作為のない造形もひとつの自然現象のようにとらえることはできないか、と考え始めた。

そうして「SHOKKI」のベースとなる部分ができていった。